【NEWS】「ジム・クラーク ミュージアム」のために5万3000ポンドの寄付金が集まる。

2018/12/02 07:55

ジム・クラークがサーキットに散ってから50年が経過。

 

節目の年に当たる今年、「グッドウッド フェスティバル オブ スピード2018」で開かれたチャリティーイベントにて、総額5万3000ポンドの寄付金がジム・クラーク トラストに寄せられた。

 

 

ジム・クラークの業績を後世に伝える「ジム・クラーク ミュージアム」は現在敷地面積を拡大してリニューアル工事が進んでいる。総工費160万ポンド(約2億3200万円)を要する大規模な改築工事で、すでに今年6月から作業は始まっている。

 

同ミュージアムはジム・クラーク トラストを始めとする3つの団体が運営管理する。総工費160万ポンドのうち、同トラストは30万ポンドを負担する。しかし故人の親類縁者が構成するこのトラストが資金を集めるとなると一般からの支援に頼らざるを得ない。

 

そこでジム・クラーク トラストはグッドウッド フェスティバル オブ スピードの主催者マーチ卿(正式にはDuke of Richmond and Gordon—第11代リッチモンド公爵 チャールズ・ゴードン‐レノックス)に相談を持ちかける。マーチ卿は即座にこう答えたという。

 

「では、ジム・クラークを今年の公式チャリティーイベントのテーマにしましょう」

 

こうして話はとんとん拍子に運んだ。

 

グッドウッド フェスティバル オブ スピード2018に来場した人々から寄せられた寄付金5万3000ポンドは、ジム・クラーク ミュージアムの大規模リニューアル工事の資金に充当される。

 

「ロータス・カーズ」も立ち上がる。

 

これとは別にグッドウッド開催に先駆けて資金確保に向けたもうひとつのプロジェクトが立ち上がっていた。

 

 

これにはロータスカーズが素早く対応した。折しも同社は創業以来10万台目のロータス車を製造するタイミングを迎えていた。この記念すべきクルマをトラストに預けると決めたのだ。

 

かくしてワンオフの「ジム・クラーク・スペシャルエディション・ロータス エヴォーラ GT410スポーツ」が生まれた。クラークが存命中愛用した1960年製エランからヒントを得て、ロータス エクスクルーシブが手塩に掛けて仕上げた1台だ。

 

 

ジム・クラークファンはもちろん、世界中のモータースポーツファンのハートに訴える出来映えだ。内装はスコティッシュ タータンチェック、シフトノブはウッド、リヤクオーターピラーにクラークのサインが描かれる。

 

 

ロータスの意向を受けたトラストは「Win a Jim Clark Special Edition Lotus Evora GT410 Sport」と題したウェブサイトを設定した。希望者はこのサイトに入り、エントリーフィーの20ポンドを支払うと簡単なクイズに答える資格を得る。正解者のなかから抽選で選ばれた1名にこのスペシャルエヴォーラが贈与されるのである。つまりクイズのエントリー数が多いほどトラストの収益金が増えることになる。

 

幸運な1名の名前は、2019年夏に予定されている新装ジム・クラーク ミュージアムのオープニングセレモニーにて発表される。

 

クイズの受付け開始セレモニーもグッドウッド フェスティバル オブ スピードで賑々しく行われた。ジム・クラーク トラストは会場内に特設パビリオンを開設、故人をしのぶ数々のメモラビアとともに、くだんのワンオフ・エヴォーラを展示して多くの来場者を呼び寄せた。

 

 

「ジム・クラーク ミュージアム」の完成は2019年夏。

 

セレモニーには同トラストの後援者であるマーチ卿、名誉会長を勤めるサー・ジャッキー・スチュワート、グループロータスCEOのフェン・クインフェン、そしてチームロータスの名物メカニック、ボブ・ダンスの4名が列席、揃って写真に収まる場面もあった。席上、FIA会長のジャン・トッドがマーチ卿に代わり、同トラストの後援者に就くことが発表になった。

 

ジム・クラーク トラストのセクレタリー、ベン・スミスがセレモニーで述べた謝辞がこのプロジェクトのすべてを物語っている。

 

「本年のグッドウッドフェスティバル オブ スピードの主催者より賜ったサポートと寄付金を寄せてくださった何千という来場者の皆さまに心から感謝申し上げます。会期中、マーチ郷と多くの関係者諸氏およびボランティアの皆さんから資金調達のサポートをいただき、忘れがたい4日間となりました。この計画に皆さまが示してくださった関心と、故人に寄せる愛情に勇気づけられる思いです。来夏、新装なったミュージアムにご来場いただけるのを今から楽しみにしております」

 

今から半世紀前、足早にこの世を去った不世出のレーシングドライバーの人柄が多くの人々の共感を呼び、温かい好意となって実を結んだ。新設中のジム・クラーク ミュージアム竣工を心待ちにしたい。

 

 

天才「ジム・クラーク」ストーリー。

 

滅多に世に現れない優秀な人物を表すのに「不世出」という言葉がある。ジム・クラークほど、この言葉が相応しいレーシングドライバーはいない。モータースポーツの歴史を通じて、もっとも優れたドライバーのひとりに挙げられるのがジム・クラークだ。

 

F1では1963年と65年にドライバーズタイトルに輝き、33回のポールポジションを獲得、通算勝利数25勝を数える。すべてロータスで挙げた快挙だ。

 

 

しかし、こうしたデータが語る以上にクラークの才能は傑出していた。1963年シーズン、ロータス25を駆って10戦中7回ポールポジションに着き、7勝を挙げる。開幕戦のモナコGP以外すべて3位以内に入賞して、自身初のF1ワールドチャンピオンに輝いた。

 

1965年も破竹の勢いで勝ちを重ねる。インディアナポリス500出場のため欠場したモナコGPを除き(その代わりインディに優勝)、開幕戦南アフリカGPから第7戦ドイツGPまですべてのレースに優勝、3戦を残した時点で2度目のチャンピオンを決めた。

 

どちらも圧倒的な強さで獲得したタイトルだった。強いだけではない。自身にもマシンに対しても常にセイフティマージンをキープするレース運びは盤石で、もっともアクシデントから遠いドライバーと言われた。

 

マシンを速く走らせる能力には天性のものがあり、どれほど出来が悪いマシンでも速いタイムを出すので、どこを修正すればいいのかわからないというメカニック泣かせの「ナチュラルドライバー」でもあった。

 

迎えた1968年シーズン、名機フォードDFVエンジンを搭載したロータス49に乗るクラークは、優勝候補の筆頭に立つ。そのクラーク、F1レースの合間を縫ってホッケンハイムのF2レースに出場した。当時、F1ドライバーがほかのカテゴリーのレースに出るのは珍しいことではなかった。

 

悲劇は第1ヒートの5周目に起こる。クラークの乗るロータス48が突然コースから外れ、立木に激突、クラークは落命した。原因は今にいたるも不明。ほぼ即死だったという。

 

1968年4月7日、モータースポーツ界は傑出したタレントを永遠に失い、世界中のファンが悲嘆に暮れた。

 

 

何故アクシデントは起こったのか。

 

FIAが1967年からヨーロッパF2選手権と銘打ったシリーズタイトルを創設したのを受けて、コーリン・チャプマンは1968年、F1と平行してF2選手権のかかったレースに全戦出場することを決めた。4月7日のホッケンハイムは選手権のかかった初戦だったが、事前にマシンの仕上がり具合を確認するため、その7日前に開催されるバルセロナF2レースに出場することを決める。

 

予選でポールポジションに着いたのはマートラに乗るジャッキー・スチュワートだった。ロータス48駆るクラークは0.1秒遅れの2位でレースに臨む。オープニングラップ、手堅く2位をキープしたクラークはヘアピンでブレーキを掛ける。ところがその直後にフェラーリ・ディーノ ティーポ166に搭乗するジャッキー・イクスが接近していた。制動を遅らせたイクスはクラークと接触。ロータスはテールを進行方向に向けた状態でコースを横切り、リヤサスペンションのアッパーアームとホイールを破損、クラークはその場でリタイアを余儀なくされた。

 

これもレーシングアクシデントだとクラークはすぐに頭を切り換えたが、ひとつ懸念材料が残った。マシンを本国に戻してリペアをしたのではホッケンハイムに間に合わない。メカニックはドイツへの移送中に修理をするしかなかった。今となれば、これが不運の兆しの一つであった。

 

当時のホッケンハイムは1周6.77km。緩やかに右に湾曲する長い2本のストレートを、北側は1つの高速コーナーで、グランドスタンドのある南側は複数のコーナーで結ぶ比較的単純なレイアウトだった。どちらかと言えばクラーク好みのサーキットではない。

 

クラークにとってコトは予選から巧く運ばなかった。燃料系にトラブルが発生し、1回目の予選ではコースに出ることさえできなかった。ポールポジションに着いたのはマートラのジャン-ピエール・ベルトワーズ、2位はやはりマートラのアンリ・ペスカローロ。そのあとはブラバム勢が続き、クラークはグリッド7位に沈んだ。

 

悪いことにレース当日は雨に見舞われた。コースは完全なウェットだ。フラッグが振り下ろされた瞬間から2台のマートラが先行する。飛び出しのよかったクラークはクリス・エイモンとデレック・ベルをかわして5位に浮上するも、その後ペースが掴めないまま次第に順位を落としていく。

 

グランドスタンドの前を通過して5周目に入るクラーク。それが、観客が目撃した最後のクラークの姿だった。右コーナーを抜けてかすかに上り勾配となるストレートに入っていく。樹木が密生した森に左右を挟まれた区間だ。緩やかに右に旋回する区間に立っていたコースマーシャルが、ロータスのリヤが片側にグイッと引っ張られ、次の瞬間反対側に振れたのを目撃している。クラークを乗せたロータスはそのまま斜めにコースを横切り、数本の木に激突した。

 

最初の衝撃でエンジンとリヤサスペンションがモノコックから引きちぎれた。マシンはカーナンバー1と記されたノーズから真正面にぶつかり、大破。フルハーネスも強固なCFRP製タブもない当時、ジム・クラークが生存できるチャンスは万に一つもなかった。

 

事故後、子供が二人現場付近にいるのを目撃したと言う人物が現れた。コースを走って横切ろうとした二人をクラークが避けようとしてコースアウトしたのだろうと、確証もないままに述べたのだった。『Jim Clark Remembered』の著者グレアム・ゴールドは、その著書で、子供がコースに紛れ込んだことは、あり得ないとは断言はできないが、蓋然性は極めて低いと述べている。

 

コース両側の草地は雨で滑りやすくなっていたうえに、コース幅も広い。だれが走っても渡りきるのに10〜12秒は掛かる。しかるに当時、クラークの前後を走っていたドライバーは誰一人としてコースを横切る人影など目撃していないというのが根拠だ。現場を自分で検証したゴールドの主張には十分な説得力があるように思える。

 

今日、もっとも有力とされている事故原因は右リヤタイヤのスローパンクチャーで、これはチャプマン自身の発言による。

 

「ジミーのタイヤは4周目になにか鋭いものを踏んだのだろう」とチャプマンは言う。前日の予選で1台のマシンのクランクシャフトがエンジンブロックを突き破り、金属の細かい破片がコース上に散乱した経緯がある。

 

グランドスタンドを通過したとき、右リヤタイヤの空気圧は正規の15psiから10psiに落ちていた。そのあとに続く曲率のきつい右コーナーを旋回中、荷重が外側の右タイヤにかかった。コーナーを抜けたクラークは直線に入る。車速が増すに連れて遠心力も増える。これがさらなる空気圧の低下に繋がり、ある限界点を超えてサイドウォールが爆発的にリムから外れた。以上がチャプマンの見解である。

 

事故後のシミュレーションテストでも同様な現象を確認したとチャプマンは言うが、事故の瞬間を捕らえた映像がない以上、あくまでも理論的な推測の域を出ない。

 

確たる事故原因はおそらく今後も不明のままだろう。ただひとつ確かなのは、「天駆けるスコットランド人」が天賦の才能を活かし切るまえに32歳の若さで帰らぬ人となった、その事実である。

 

 

TEXT/相原俊樹(Toshiki AIHARA)