「ポルシェ 906(1966)」ピエヒ時代の到来を告げるレーシングスポーツ《ポルシェ図鑑》

2019/03/10 11:55

1966 Porsche 906

 

 

904に代わるミッドシップのレーシング・スポーツカー

 

ポルシェ906は、1966年からマニュファクチャラーズ・チャンピオンシップがGTからグループ4に変更されたのを受け開発されたミッドシップのレーシング・スポーツカーである。

 

1966年にFIAは世界スポーツカー選手権のレギュレーションを変更し、マニュファクチャラーズ・タイトルがGTから年間生産台数50台のグループ4スポーツカーに与えられることとなった。併せて諸条件も緩和されたため、ポルシェは904に代わるマシンの開発に迫られた。

 

そこで主導的な役割を果たしたのが、904を開発したハンス・トマラ技師に代わりポルシェ・レーシング部門の開発責任者に就いたフェルディナント・ポルシェの孫であるフェルディナント・ピエヒだった。すでに1963年にポルシェに入社し、フラット6エンジンの開発に携わっていた彼は、ラダーフレームの904に限界を感じ、1965年のヨーロッパ・ヒルクライム選手権最終戦のために鋼管スペースに2リッター・フラット8を搭載した“オロン・ヴェラール・スパイダー”を開発、投入するなど独自の活動を進めていたからだ。

 

意識したのは、ディーノ206

 

彼らが906の開発にあたり意識していたのは、1965年に登場しヨーロッパ・ヒルクライム選手権のチャンピオンを獲得したほか、様々な耐久レースで2リッタークラスを席巻していたフェラーリ・ディーノ206だ。

 

鋼管スペースフレームにアルミパネルを貼り付けたセミモノコックのシャシーに200hpオーバーのV6 DOHCを搭載した206に対抗するために、906ではオロン・ヴェラール・スパイダーを元にした鋼管スペースフレーム・シャシーを採用。当初は剛性の確保に苦労したものの、遥かに軽量になったうえ、ボディとフレームを一体に接着したため修復が容易ではなかった904に比べ、整備性が向上したのが特徴といえた。またガルウイング・ドアが印象的なボディスタイルはシュトゥットガルト工科大学の風洞施設で実験を重ねた末に決定されたもので、応力を受けない薄肉のFRPで成形されていた。

 

一方、足回りは開発費を抑えるためにフロント・ダブルウィッシュボーン、リヤ4リンクのサスペンションや、ATE製のディスクブレーキ、15インチのタイヤホイールは904のものが流用されることとなった。

 

 

エンジンは「804 F1」で培った技術を採用

 

エンジンは1991ccの空冷水平対向6気筒SOHC 901/20ユニットをミッドシップ・マウント。その基本は市販の911のものと同じだが、クロマルシリンダーや鍛造ピストン、ツインプラグ・ヘッド、チタンコンロッドなど、804 F1で培った技術が盛り込まれた専用品となっており、ウェーバーのトリプルチョーク・キャブレターを装備した市販用が210hp、ボッシュ製の機械式インジェクション・システムを装備したワークス用は220hpを発揮していた。

 

新車価格45000ドイツ・マルクで発売された906だが、生産が遅れたためにホモロゲーションの取得が遅れ、デビューレースとなった2月5〜6日のデイトナ24時間レースではプロトタイプのSP II(2リッター以下)クラスでのエントリーとなった。このレースに1台だけ出場したワークスのヘルベルト・リンゲ/ハンス・ヘルマン組は、一度もトラブルに見舞われることなく総合6位、SP IIクラスで優勝。続くセブリング12時間でもヘルマン/ジョー・ブゼッタ組が総合4位、SP IIクラス優勝。モンツァ1000kmでヘルマン/ゲルハルト・ミッター組が総合4位、SP IIクラス優勝するなど向かうところ敵なしの強さをみせた。

 

さらに5月8日に行われたタルガ・フローリオでは、ウィリー・メレス/ヘルベルト・ミュラー組が総合優勝。6月18〜19日のル・マン24時間レースでは、フォードGT40勢に続き総合4〜7位を独占し、クラス優勝はもちろん性能指数賞も獲得する大活躍をみせることとなる。

 

この結果、ディーノ206Sがホモロゲを取得できなかったこともあり、1966年のマニュファクチャラーズS II(2リッター)クラスの王座を獲得。さらにプロトタイプのSP IIクラスのタイトルも獲得してしまう圧倒ぶりであった。

 

第4回日本グランプリでは、生沢 徹が906で優勝

 

そんな906は発表間もない1966年3月にプライベートレーサーの瀧進太郎によって三和自動車を通じて日本に輸入されている。滝は開業したばかりの富士スピードウェイで行われた第3回日本グランプリにエントリー。結果はタイヤバーストによるリタイアとなったものの、4台体制で臨んだプリンス自動車のR380を相手に一時トップを走り、そのポテンシャルの高さをみせつけた。

 

続く1967年の第4回日本グランプリでは瀧に加え、プライベーターの生沢徹、酒井正も906で参加。プリンスと合併した日産自動車からエントリーした4台のR380-IIを退け、生沢が優勝する快挙を成し遂げたのである。

 

これ以降も906は名バイプレイヤーとして、日本のスポーツカーレースに長く参戦。最後となった1977年の富士1000kmレースでは、11年落ちのマシンながら総合4位に食い込み、図らずもそのポテンシャルと耐久性の高さを実証してみせた。

 

 

ポルシェ・ミュージアムに展示されている906-108。1966年のミュルブルクリンク1000kmにジャン-ピエール・ベルトワーズ/ペーター・ノッカーのドライブで出場し11位に入ったマシンで、現在は1967年のニュルブルクリンク1000kmにZDFのテレビカー(ドライバーはポール・フレール)として持ち込まれた状態にレストアされている。

 

 

906-108に搭載されていた1991cc フラット6 SOHC 901/20ユニット。トリプルチョークのウェーバー46IDAキャブレターを2基装備する。中身には804F1で培った様々なマテリアルがつぎ込まれているが、外観は市販の911と大きく変わらない。

 

 

1966年5月8日のタルガ・フローリオで総合優勝&グループ4 S IIクラスの優勝を果たしたウィリー・メレス/ヘルベルト・ミュラー組の906-128。インジェクションのフラット6や2.2リッターのフラット8を搭載したワークス906が全滅したため、SP IIクラスはディーノ206Sにさらわれた。

 

 

1966年のル・マン24時間レースにエントリーしたワークス906勢。名所ユノ・ディエール対策として空気抵抗の低減と最高速の向上を狙ったロングテール・ボディを初めて投入した。ゼッケン30はジョー・シファート/コリン・デイヴィス組の906-153で総合4位、SP IIクラス優勝、総合指数賞獲得という大活躍を演じた。

 

 

ポルシェ・ミュージアムのデポに保存されている906ロングテール。ボンネットやサイドの黄色い塗装がオリジナルであれば、ピーター・デ・クラーク/ウド・シュッツ組がドライブした906-152の可能性が高い。

 

 

1966年3月26日に行われたセブリング12時間で906に加え、904、911が総合&各クラスで活躍したことを示すポスター。しかしながらこのレースではプライベーターのスクーター・パトリック/ドン・ウェスター組の906がコースアウトし、観客4人が死亡する事故も起きている。

 

 

1967年5月3日に富士スピードウェイで開催された第4回日本グランプリ。三和自動車所有の906で出場した生沢徹が、富士スピードウェイ・フルコース初の2分切りを果たしてポールポジションを獲得。決勝では高橋国光の日産R380-II、酒井正の906とのバトルを制し、見事に優勝を飾った。

 

 

【SPECIFICATION】

ポルシェ 906

年式:1966年
エンジン形式:空冷水平対向6気筒SOHC
排気量:1991cc
最高出力:210hp
最高速度:280km/h

 

TEXT/藤原よしお(Yoshio FUJIWARA)
COOPERATION/ポルシェ ジャパン(Porsche Japan KK)