新型ストラトス 誕生物語 Vol.01「開発に向けて」
公開日 : 2019/03/22 17:55 最終更新日 : 2019/07/20 23:57
New STRATOS
ニューストラトス
すべては熱狂的なファンによる夢からはじまった
彼らの夢は、いつ始まったのだろうか。まず覚えなければならない主役のひとりは、ドイツで自動車用のシートやドアといった部品を自動車メーカーに納入する、大手のサプライヤーを経営するミハエル・シュトシェック氏。そしてもうひとりは、世界でも有数のコレクターとして知られる、ラビ・ラバレック氏を父に持つクリス・ラバレック氏。この両氏に共通するのは、いずれもランチア・ストラトスの熱狂的ファンであるということだ。
コピーではなく、最新の現代版「ストラトス」を目指す
グループ4のストラトスを所有していたミハエルと、プロトタイプからストラダーレ、グループ4、そしてさまざまな資料に至るまで、幼少の頃から多くのストラトス・コレクションに囲まれて育ったクリス。クリスは後に自動車デザイナーの道をめざし、イギリスのデザイン・カレッジを卒業した後に、自らのデザインスタジオ、フェノメノンを設立する。そして自動車デザイナーとなったクリスと偶然に再開したミハエルは、長く思い描いていたひとつの夢を、ストラトス・エンスージアストの同志でもあるクリスに語る。それは現代の最新技術を駆使して、ランチア・ストラトスのコンセプトを受け継いだスポーツカーを造ることはできないか?というものだった。コピーなどではなく、最新の現代版ストラトスを。
提携先はピニンファリーナ
後にフェノメノンへと移管されるストラトスの商標は、当時はラビ・ラバレック氏個人が所有していたというから“フェノメノン・ストラトス”というネーミングで現代版のストラトスを世に送り出すことは、プランの上ではさほど難しいわけではなかっただろう。だが実際には、そのデザインはもちろんのこと、シャシーやエンジンといったさまざまな仕様を決定し、必要なパーツを調達していくエンジニアリング面での作業をフェノメノンだけで行うことは不可能に近かった。
クリスはフェノメノン・ストラトスを共同開発する提携先を探すが、最終的に選ばれたのはイタリアのトリノにあるピニンファリーナだった。ピニンファリーナは、一般的にはデザインスタジオと考えられているが、実際には1970年代初期から自動車デザインに風洞実験を採用。また生産面でもワンオフから小中規模モデルに至るまで、その委託を受けるなど、クリスのプロジェクトには最適な会社だった。そしてフェノメノンとの契約は2008年に締結された。
ピニンファリーナでのニュー・ストラトス・プロジェクトは、まずそのベースとなるモデルに何をチョイスするのかから議論が始まった。当然のことながらミハエルもクリスも現代において十分にパフォーマンスを誇ることができるモデルを期待していたから最新のスーパースポーツ、もちろんミッドシップのスーパースポーツをベースに選ぶことが必要不可欠な条件だった。
特異なオリジナルと、ベース車両選び
さらにクリスとピニンファリーナを悩ませたのは、そもそものランチア・ストラトスがもつ特異なボディサイズ、そしてホイールベースとトレッドの比率だった。ちなみに1970年代に入り、ランチアのためにストラトスのデザインを描いたのは、当時ベルトーネのチーフ・スタイリストの職にあった、かのマルッチェロ・ガンディーニ。ベルトーネはそれ以前にもストラトス・ゼロというコンセプトカーを発表していたが、これには一切の興味を示さなかったランチアも世界ラリー選手権の制覇という目的のために、より高性能なコーナリングマシンの必要性に迫られたのだ。そして結果的にガンディーニが描いたのが誰もが知るストラトスの個性的な姿。その短いホイールベースと個性的な、しかしながらスポーツカーとしての凄みを持つスタイルを表現するには、何をベースに選択するべきなのか。ピニンファリーナが告げた答えは、フェラーリの430スクーデリアだった・・・。(続く)
文/山崎元裕(Motohiro YAMAZAKI)