動かすことだけがレストアではない「ポルシェ 910/8 ベルクスパイダー」

Porsche 910/8 Bergspyder

ポルシェ910/8 ベルクスパイダー

 

 

これまでも、これからも動くことのない910/8

 

今回紹介する「ポルシェ910/8 ベルクスパイダー」が、誰かの手でドライブされる可能性は残念だがほとんどない。この貴重なレーシングカーはもう52年間も、そのままの状態で保存されている。

 

ボンネットは劣化し、すっかりカラーリングは色あせてしまっている。しかし、正真正銘本物の個体であるからこそ大切に保存されてきた。「910/8 ベルクスパイダー」が伝えるのは、その類まれな独創性と、止まってしまった時間である。

 

 

決してエンジンに火を入れてはならない

 

ポルシェミュージアムのコレクション責任者アレキサンダー・クラインは、「我々は、このマシンの在るがままを伝えたいのです。この貴重な個体をいじくり回してしまっては、その独創性を損なってしまいます」と、説明する。

 

「910/8 ベルクスパイダー」はエンジンに火を入れることは許されておらず、ドライブできるようにレストアされる予定もない。

 

「このクルマを動けるようにレストアするつもりはありません。このベルクスパイダーはすでに使命を果たしました。素晴らしい走行性能を持ち、勝利できることは、もう証明したのですから」

 

 

修復ではなく保存という選択肢

 

ポルシェ ミュージアムがレーシングキャリアを全うしたヒストリックカーを、そのまま展示することにしたのは、この個体が初。それ以来、その方針は変わっていない。しかし、ミュージアムに保存されている約640台のポルシェのうち、修理・修復せずに保存されているのは3台のレーシングカーのみ。いかにレアな個体かということが理解できるだろう。

 

ポルシェ・ミュージラムのディレクター、アキム・ステスカルは決定に至った理由を以下のように説明する。

 

「ヒストリックカーを取り巻く環境、そしてどう扱うべきかは、この10年間で大きく変化しました。もう、ピカピカにして動かすだけが、その手段ではなくなったのです」

 

 

2012年に定められた保存と修復に関するガイドライン

 

現在、貴重なヒストリックカーに関しては、文化的遺物をそのままの状態に維持するという「トリノ憲章(Charter of Turin)」に則った方針が採られている。これは2012年以降、ヒストリッックカーイベントを統括するFIVA(Federation Internationale des Vehicules Anciens)が定めた自動車の保存と修復に関するガイドラインだ。

 

さらに詳しく説明すると、自動車の保存において、歴史的な物質、パーツ、材料を変更しない。保存のために歴史的または重要な価値を危険にさらしてはならない、とされている。

 

「我々は、このプロジェクトについて、長い時間検討を重ねてきました」と、クライン。

 

 

1967年5月にファクトリーで完成

 

「910/8 ベルクスパイダー: 910 031」は、この問題を考えるには、ぴったりの存在だった。F1でも活躍し、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権で優勝したゲルハルト・ミッターお気に入りの1台で、1967年に最後のレースに出走している。

 

記録によると「910 031」は、1967年5月13日土曜日にファクトリーで完成している。最高出力202 kW(275ps)を発揮する8気筒ボクサーユニットをミッドに搭載。従来の素材に替えて、軽量なチタニウム、マグネシウム、アルミニウム、プラスチックなどの素材が積極的に使用された。

 

スチール製スペースフレームにグラスファイバー製シェルが組み合わせられ、シャシーは当時のF1規格に沿って設計。スプリントヒルクライムでの走行のため、軽量小型な13インチマグネシウムホイールが与えられた。ボンネット、フロアパンは薄型強化プラスチック製。テールのほぼ全体をカバーする一体型スポイラーはヒンジで取り付けられている。当時最先端の空力技術、そして450kg以下という車重により、0-100km加速は3秒という俊足を誇った。

 

 

ヨーロッパ・ヒルクライム選手権で4勝を獲得

 

完成から1週間後、「910 031」はカーナンバー「86」を掲げ、最初の実戦の場であるスペイン・モンセニーへと向かった。この200kmの競技区間で争われたヒルクライムレースにおいて、「910/8 ベルクスパイダー」は初勝利を飾る。8戦が組まれた1967年シーズンの「ヨーロッパ・ヒルクライム選手権」において、さらに3勝を記録した。

 

そして、1967年10月3日、オーストリア・ガイスベルクで開催されたレースでリタイアし、そのキャリアを終えている。大きなダメージもなく、その後ブレーキフルード、燃料、オイルが抜かれ、バッテリーが取り外され、最終的にミュージアムのコレクションに加えられた。それ以来、このレーシングカーは少しずつ劣化を続けていた。

 

 

丁寧に時間をかけた修復・保存作業

 

現在、「910/8 ベルクスパイダー」の保存に関する課題は、基本的な内容を変更することなく、劣化を抑制することにある。この困難なタスクに挑むにあたり、ミュージアムは、素材と塗料の保護に関する専門家である、グンドゥラ・トゥット博士(写真)に助けを請うた。ミュージアム・ワークショップの責任者、クノ・ベルナーは「彼女こそ、この仕事に相応しい人物」と、太鼓判を押す。

 

トゥット博士は、ミュージアムの一角で「910/8 ベルクスパイダー」の作業を行なっている。内外装の腐食を防ぐため、埃や塵を取り除くための作業もひとりで行い、約1週間を要するという。

 

「この作業には霧吹きと柔らかいブラシを使います。水分はすぐに蒸発するので、どの物質にも影響を与えることはありません」と、トゥット博士。 エンジン、シャシー、ボディ、インテリアは、急ぐことなく、少しずつ汚れが取り除かれていく。例えば、ボディの損傷箇所、剥がれてしまったエンブレムなどは、丁寧に両面接着剤で固定する。

 

 

いつの日かミュージアムに展示することを目指して

 

今回の修復作業の最終的な目標は、「910/8 ベルクスパイダー」が1967年にファクトリーを出て、トランスポーターに乗せられた時の状態に戻すこと。それはあくまでも外観を取り戻す作業であり、動かすためではない。

 

「誰かが将来、このクルマを運転したいと思うかもしれませんね」と、トゥット博士は言う。

 

確かに例えば「シュトゥットガルト・レトロ・クラシック」で、52年ぶりに「910/8 ベルクスパイダー」が披露されれば、多くのファンが「この美しいレーシングカーを走らせるべき」と、訴えるかもしれない。

 

ディレクターのステスカルはいつの日か、このクルマがミュージアムに展示されることを約束してくれた。しかし、それは今ではない。もう少しだけ時間が必要だ。