ニキ・ラウダ、F1を愛し続けた“不死鳥”の生涯(第1回)【追悼企画】

親から反対され、生命保険を担保にレース参戦

 

ニキ・ラウダは、1949年2月2日にオーストリアの首都ウィーンに生まれた。実家は代々続く裕福な実業家だった。自動車の免許を取得すると自動車レースに憧れるようになったが、親からはレース活動を反対されてしまった。それでもミニを手に入れて親に内緒でレースに出場したところ、入賞と優勝。これでレース活動が親に知られることになり、勘当同然の扱いを受けてしまう。

 

だが、ラウダのレースへの思いは変わらず、ついには銀行からの融資でレース資金を捻出した。銀行の融資には担保が必要だったが、ラウダは自身の生命保険を担保にしていた。クラッシュで死んでも生命保険で融資を回収できると、銀行を説得したという。1960年代末の自動車レースではクラッシュによる死亡率も高かったからだ。ここに、極めて実利的で、現実を冷徹なまでに見透かすラウダならではの計算高さがうかがえる。

 

この資金をもとにラウダは、英国のレーシングカーメーカーのマーチへと向かう。1971年のことだった。当時のマーチは独自のチーム活動を行っており、F3、F2、F1にも参戦していた。 F2で好成績を出したラウダは、この1971年のオーストリアGPでF1にもデビュー。結果はリタイアだった。 翌1972年、ラウダはマーチからF2とF1の両方に参戦。ヨーロッパF2選手権ではランキング5位になったものの、F1の方はマーチのマシン作りが上手く行かず、入賞もない目立たない成績で終わった。

 

レガッツォーニの後押しでフェラーリへ

 

1973年、英国のF1チームであるBRMに移籍。BRMは1960年代にF1でチャンピオンを獲得した名門だったが、1970年代に入ると成績が下降していた。ラウダはチームに加入すると、得意の理詰めの姿勢でマシンの改良を示唆。これが功を奏して、ベルギーGPでラウダ自身のF1初入賞となる5位に入った。

 

また、チームメイトだったクレイ・レガッツォーニはこのラウダの高い開発能力をすぐそばで目の当たりにしていた。レガッツォーニは翌1974年にかつて所属したフェラーリに戻ることになり、そのチームメイト候補にラウダを推す。これを受けて、ラウダも1974年にフェラーリに加入した。

 

スクーデリア・フェラーリは名門だったが、1964年以来ドライバーズもコンストラクターズでも、チャンピオンを獲得できないでいた。1972年はコンストラクターズ4位、1973年には同6位と成績が下降。フェラーリ創業者のエンツォ・フェラーリは、スクーデリア・フェラーリのチーム監督にルカ・ディ・モンテゼモロを起用。1974年はチーム立て直しを図ろうとしていた時だった。

 

ラウダはここでもマシン開発に好影響を及ぼした。フェラーリ加入初年度の1974年に、スペインGPで自身のF1初優勝を獲得。さらにオランダGPでも優勝。

 

 

名車312Tを駆り、1975年に念願のF1王者に

 

1975年、フェラーリはマウロ・フォルギエリによる新型マシン「312T」を投入。横置きギヤボックスによる運動性向上を果たしたマシンを駆って、ラウダは5勝を含む入賞12回で初のチャンピオンに輝いた。スクーデリア・フェラーリもコンストラクターズチャンピオンに返り咲く。

 

1976年もラウダは開幕から2連勝。第4戦スペインGPから改良型の「312T2」が投入されると、さらに3勝を挙げた。シーズンはラウダの圧勝と思われた。が、第10戦ドイツGPでクラッシュし、マシンは炎上。これで頭部に重度の火傷を負ったほか、肺にも熱傷を負うという、瀕死状態になってしまった。

 

しかし、ラウダは苦しい治療とトレーニングをすることで、事故から1カ月半後のイタリアGPでレースに復帰した。まだ傷が癒えていない痛々しい姿にもかかわらず、堂々とした態度でレースに臨み、4位に入賞。ラウダはクラッシュの炎と死の淵から返り咲いた「不死鳥」と称賛されるようになった。

 

富士で安全を優先したことで広がった、エンツォとの溝

 

ラウダがケガで欠場している間に、マクラーレンのジェームス・ハントがポイントを伸ばし、チャンピオン争いはラウダ対ハントの一騎打ちの状態で、最終戦までもつれ込んだ。

 

最終戦の舞台はF1・イン・ジャパンとして日本初のF1公式戦となった、富士スピードウェイだった。決勝日はひどい雨。ラウダは危険であるとして、スタートから2周で自主的にリタイアした。結果、レースを続行したハントが3位になりチャンピオンを獲得。ラウダはわずか1点差で敗れた。

 

エンツォ・フェラーリは常に勝利を欲し、そのために“ファイター”を求めた。その巨大なプレッシャーは感じていても、ラウダはレースの安全を優先した。この勇気ある行動は、のちに日本の高校の英語の教科書にも掲載されるほどで、世界中で感動を巻き起こした。

 

1977年、前年の富士での出来事などから、ラウダとエンツォとの関係は悪化。また、フェラーリでの勝利は、常にフェラーリとマシンが前面に出されることにも反発していた。ラウダは2度目のチャンピオン、スクーデリア・フェラーリ3年連続のコンストラクターズチャンピオンを置き土産に、マラネロを去る。

 

突然の引退も、2年後にマクラーレンから復帰

 

ラウダの新たな加入先は、アルファロメオエンジンを獲得したブラバム。しかし、当時のアルファロメオ製エンジンは信頼性が弱点だった。加入翌年の1979年カナダGPで、ラウダは突如引退してしまった。「モチベーションを失ってしまっていた」と、後年にラウダは語っている。そして、すでに始めていた航空会社(ラウダ航空)事業に力を注ぐことになった。

 

しかし、F1はラウダを放っておかなかった。1981年にマクラーレンからのテストの誘いがラウダに入った。当時のマクラーレンは新体制となり、成績不振から立ち直ろうとしていた。ラウダの意欲にスイッチが入る。

 

テストの結果、1982年からラウダはF1に復帰することになった。このとき、2年間のブランクを懸念するチームを安心させて、ラウダ自身のモチベーションも高めるために、開幕から4戦までに結果が出せなければ、契約を解除されるという条項をラウダ側から契約に盛り込ませている。

 

TAGポルシェV6ターボを得て、3度目の戴冠

 

はたしてラウダは、1982年第3戦ロングビーチ(アメリカ西)GPで優勝してみせた。この年はイギリスGPでも優勝し、ドライバーズランキングも5位につけた。自身のラウダ航空の宣伝と資金稼ぎのための現役復帰だろうと、いぶかった者たちへ結果で答えを叩きつけたのだ。

 

1983年、マクラーレンはF1ターボ化時代の波の中で、苦戦を強いられた。だが、このシーズンはポルシェ製V6ターボエンジンを獲得し、開発テストを始めていた。ここでラウダは本領を発揮。高い技術知識と開発能力で、ポルシェの技術者たちとともにV6ターボエンジンを短期間で戦闘力のあるエンジンに仕上げていた。「TAGポルシェV6ターボ」エンジンが本格稼働した1984年は、ラウダとアラン・プロストのマクラーレン勢が席巻した。そして、ラウダが0.5点差でプロストを征して、自身3度目のチャンピオンを獲得した。

 

 

引退後もグランプリから求められたラウダの助力

 

1985年、ラウダはマシントラブルやリタイアが多くなってしまっていた。モチベーションが見つからなくなったラウダは、この年で現役引退を決意した。最後の勝利はオランダGP、これはジャッキー・スチュワートによる当時のF1最多優勝記録の27勝に次ぐ、25勝目だった。

 

現役を引退したラウダは、航空会社の経営に力を注ぎ、航空機の不具合による事故を経験した際には、原因究明と再発防止に積極的に動くなど、航空業界でも多大な貢献をしている。

 

だが、ラウダにまたもF1から声がかかった。かつてフェラーリの監督としてラウダとチャンピオンを獲得したルカ・ディ・モンテゼモロが、フェラーリの社長に就任。スクーデリア・フェラーリのアドバイザーの職に就くよう、ラウダに要請したのだ。ラウダはかつての盟友による要請に応え、フェラーリの強化のために助言を与えた。

 

さらに、2001年には当時フォード傘下だったジャガーから、同社のF1チームのCEO就任を要請された。チーム強化のチャレンジを受けたラウダだったが、フォードとジャガーの上層部の方針転換から2002年末に志半ばで解雇されている。

 

絶対王者ハミルトンが「師匠」と仰いだ男

 

それから10年ほどたった2012年9月。ラウダはメルセデスAMG F1チームの非常勤会長に就任した。メルセデスは2010年からF1に復帰した状況で、ラウダは現在の常勝チームへと転換するという、重要な役割を果たした。ドライバーとして、チャンピオンとして、そして経営者としての経験と才覚を活かしたのだ。冷静で現実的な視点、高い判断力を遺憾なく発揮した。

 

会長就任当時の2012年には、ルイス・ハミルトンにメルセデス加入を促し、翌年それを実現。ハミルトンは「現在の自分があるのはニキのおかげ」と語っており、ラウダのことを「メンター=師匠」としている。ハミルトンのみならず、2016年のチャンピオンになったニコ・ロズベルグや、現メルセデスドライバーのバルテリ・ボッタスにも多大な薫陶と勇気を与えている。

 

瀕死の重傷からの復帰と、チャンピオン獲得。現役復帰からの再度手にした王座。F1の歴史のなかで、唯一無二の経歴と戦績だった。さらには、現在のメルセデスのF1での圧倒的な強さにも、多大な貢献をしている。

 

ニキ・ラウダは自動車レースを我が人生であり欠かせないものと言った。そして、自動車レース界にとってもまた、ニキ・ラウダは必要で欠かせない存在であり続けたのだ。

 

 

TEXT/小倉茂徳(Shigenori OGURA)