フェリー・ポルシェの夢、疎開先のオーストリア・グミュントで生まれた「356」物語

ポルシェ356/2のフロントスタイル1

Porsche 356

ポルシェ 356

 

 

空爆激しいシュトゥットガルトからグミュントへの疎開

 

第二次大戦中、設立されたばかりのポルシェはシュトゥットガルト・ツッフェンハウゼンからオーストリアのグミュントへと疎開している。ポルシェの名前を冠した最初の車両は、かつて製材所だった敷地内で開発・製造された。ポルシェのユニークなDNAを形作った「356 クーペ/カブリオレ」はこの地で生まれ、ポルシェを世界的なブランドへと押し上げることになった。

 

ポルシェは1931年秋にドイツで、フェルディナント・ポルシェ博士のデザイン・設計事務所として設立された。その12年後の1943年、シュトゥットガルトは連日激しい空爆にさらされており、会社の移転を考えざるを得ない状況になっていた。

 

1944年、ポルシェはより安全なオーストリアのグミュントへと本社機能を移すことを決める。

 

ポルシェは戦火を避けてドイツのツッフェンハウゼンからオーストリアのグミュントへと本社機能を移転。この地にてポルシェ356シリーズが生み出される

 

手狭ながらも平和なグロースグロックナー山間部

 

かつて製材所だった建物は当時で約300人もいたポルシェの従業員を収めるには手狭であり、工作機械も不足していた。さらに戦時中であったため資材不足も著しく、木造バラックの工場は所々に裂け目があったほどである。

 

工作機械が置かれた製造部門は、作業員が移動する隙間もないほどスペースが狭かった。経営陣と食堂のために追加のバラックを建設する必要があり、開発陣の居住区が新たにグリース・アン・ダー・リーザー地区に建てられている。

 

様々な困難が伴ったグミュントだったが、グロースグロックナー山間部の人里離れたこの場所には、大きな利点もあった。それは苛烈さを増す戦火の脅威がほとんどなく、農村地域だったためドイツで深刻化していた食料問題とも無縁だったのである。

 

グミュントで生産された356シリーズ。マーケットに送り出される前に様々なテストが行われ、スポーツカーとしてのパフォーマンスに磨きがかけられた

 

フェルディナント不在のなか、フェリー主導で開発された356

 

フェルディナント・ポルシェは、終戦後の1945年12月に戦争協力を問われて収容所に抑留されることになった。彼は1947年に釈放され、1948年に正式に免罪された。

 

フェルディナント不在期間、会社の運営は“フェリー”として知られるフェルディナントの息子、フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェが握ることになった。「最初は周りを見回しましたが、夢のクルマはなかなか見つかりませんでした。だから、私は自分でそれを作ることにしたのです」と、後年フェリーは振り返っている。

 

終戦後の厳しい状況下で会社を存続させるため、ポルシェはトラクター、シャベルカー、工業用ケーブルウィンチなどの農業用機械の開発を行った。さらに、1947年にイタリアのチシタリア(Cisitalia)から依頼された「タイプ360」の契約金は、フェルディナントの保釈金に充てられたほかフェリー・ポルシェの夢のクルマの開発資金にもなった。

 

1948年に撮影されたポルシェのグミュント工場の様子。フェリー・ポルシェの夢のクルマである356は当初「VW Sport」と呼ばれてグミュントでカタチになっていった

 

戦後、グミュントで完成した「No.1 ロードスター」

 

1948年、ついに夢のクルマが完成。完成の段階では、まだ「VW Sport」と呼ばれていた。

 

鋼管スペースフレームにアルミニウム製ボディは、当時の最新レーシングカーの哲学から採り入れられており、フロントアクスル、トランスミッション、エンジンなどの重要なコンポーネンツは、フォルクスワーゲン・ビートル(タイプ1)から流用されている。

 

ミッドに配置された1131cc空冷水平対向4気筒OHVエンジンもフォルクスワーゲン製だが、ポルシェのエンジニアは新開発のシリンダーヘッドに加え圧縮比を変更するなどの微調整を行い、最高出力はベースの25psから35psにまで向上。現在の観点ではローパワーに見えるかもしれない。しかし、わずか585kgのボディを最高速度135km/hまで加速させるには十分なパワーだった。

 

1948年6月8日、「No.1 ロードスター」こと「356.001」は公道走行許可の認可を取得した。

 

ポルシェの礎を築いたファーストモデル、No.1ロードスターに遅れること約2ヵ月、同時に開発を進めていたクーペモデルの356/2が完成。2+2シートとリヤエンジン・リヤドライブのレイアウトを採用した

 

現在まで続くRRレイアウトを形作った「356/2」

 

No.1 ロードスターと同時に開発が進められていたクーペ仕様の「356/2」は1948年8月に完成。356/2のシャシーはスチールボックスフレームを採用。4気筒ボクサーエンジンの出力は40osに増加し、エンジン搭載位置はミッドからリヤへと移動した。

 

この結果、リヤシートとラゲッジスペースがコクピットに生まれている。この時点で採用されたリヤエンジン・リヤドライブというレイアウトは、ポルシェの中核となっている911に現在も引き継がれているのはご存知の通りだろう。

 

356/2は、44台のクーペと8台のカブリオレが1948年の冬から1950年にかけてオーストリア・グミュントで製造された。クーペボディはカステンホーファー、ケイブル、タトラから供給され、カブリオレボディはカステンホーファー、ケイブル、ボイトラーなどが担当。当時のスイスやオーストリアのコーチビルダーから供給されていた。これらのグミュント製ポルシェは1949年春に開催されたジュネーブ・モーターショーで初公開されている。

 

1950年式ポルシェ356/2カブリオレ。この年を最後にポルシェはグミュントを離れたため、1948年から1950年まで生産されたポルシェ356は「グミュント356」と呼ばれ特別視されている

 

フェリーの予想を大きく上回る大ヒットとなった356シリーズ

 

フェリー・ポルシェは、彼の夢の結晶である「356」の本格生産を決定した時、このようなスポーツカーならば500台は販売できると考えていた。これこそ彼の唯一の判断ミスと言えるかもしれない。実際356シリーズは、製造が終了した1965年までに7万7000台以上もが生産されたのだ。