ある男が追った生涯の夢。特別なポルシェ 356を手に入れたヴァルター・ロール【動画】

公開日 : 2020/01/22 17:55 最終更新日 : 2020/01/22 17:55

ヴァルター・ロールと356スピードスター

Porsche 356 3000 RR

ポルシェ 356 3000 RR

 

 

オーストラリアから持ち帰った3台のポルシェ356

 

航空整備士としてオーストラリアで31年働いたあと、ヴィクトール・グラーザーは1個のスーツケースと、3台のポルシェ 356とともに故郷のオーストリアに戻ってきた。彼は自宅の壁をぶちぬき、1台の356Bロードスターをリビングルームへと鎮座させた。残りの2台はいつか訪れるレストアの日を待って輸送用コンテナに押し込められたままだった。

 

そして、グラーザーが亡くなって11年後となる2018年。ついに彼の356ロードスターのレストアが完了した。そして新品同様となったグラーザーの356が、新たなオーナーへと引き渡されることになった。

 

元航空整備士と若きフォトグラファーの出会い

 

少し時計を戻そう。

 

1996年、オーストリアの首都ウィーンから南東に約25kmほど行った、人口900人ほどの小さな村クライン・ノイジードルのホテルに、ヴィクトール・グラーザーの姿があった。彼は毎週金曜日にこのホテルで、薄いクレープ状のパンケーキ「パラチンタ」を食べるのが習慣だった。

 

その3年前、当時56歳だったグラーザーは、妻のためにオーストラリアから故郷のオーストリアへと戻ってきた。しかし、その妻はもう亡くなっている。

 

彫りの深い顔に豊かなブラウンヘア、青いオーバーオールを着たグラーザーの傍らには、かつて航空整備士として勤めていたトランス・オーストラリアン航空のジャケットが掛けられている。ホテルの外にあるのは彼の錆びた自転車。タバコを吸いながら、彼は熱心にとある自動車について話していた。

 

そんなグラーザーを観察していたのは、ホテルのオーナーの息子であり当時20代半ばのルドルフ・シュミード。彼は少し前に長期休暇を過ごしたオーストラリアから戻ったばかりだったため、オージー訛りの英語を話すグラーザーに興味を持ったのだ。

 

シュミードが英語で話しかけけると、ふたりはすぐに打ち解け合う。シュミードは彼の赤いフォルクスワーゲン・ビートルで隣村へと行く道すがら、自宅にいるグラーザーへと手を振り、そして金曜日にはホテルのレストランで会うようになった。シュミードは、グラーザーがポルシェのパーツを入手するのを手伝いながら、ポルシェに関する話を熱心に聞いた。

 

グラーザーとコンテナの356

ヴィクトール・グラーザーは、ルドルフ・シュミードを自宅に招待して撮影を依頼する。そこには彼がオーストラリアから持ち帰った3台のポルシェ 356が待ち構えていた。写真はコンテナの前で撮影された生前のグラーザー。

 

リビングに鎮座していたレストア中のポルシェ356

 

その8年後のある日、グラーザーはシュミードを2階建の自宅へと招待する。彼は今まで誰にも見せたことのない、あるものを見せようと思ったのだ。そして「うちに来るときには、君のカメラを持ってきて欲しいんだ」と付け加えた。彼はシュミードがウィーンで写真について学んでいることを知っていた。そして、その翌日にシュミードはグラーザーの自宅リビングを訪れる。

 

「これなんだ、相棒!」と、リビングルームの中心を指差してグラーザーは言った。シュミードは自分の目を信じることができなかったという。そのポルシェ 356スピードスターは、リビングルームの真ん中に鎮座していた。ヘッドライトは1つだけ、フロアやシートは取り外されている。エンジンはその背後、山のような薪の横に置かれていた。

 

「これから私がドライブする姿を、カメラに収めて欲しい」と、グラーザー。

 

「僕たちはどこへドライブするんでしょう?」と、シュミードは尋ねる。

 

「オーストラリア南海岸のグレート・オーシャン・ロードをドライブしようかな。君も行ったことがあるだろう?」

 

グラーザーはシュミードの答えを待つことなく、レストア前のスピードスターの金属製フレームに座り、両手でステアリングを握る。「2速、3速、ほら、私の髪が風になびくのが見えるだろう?」。彼は目を閉じて空冷ボクサーユニットのエキゾーストノートを口真似しながら、ステアリングを左右に切り、シフトチェンジを繰り返して加速やブレーキングを披露した。

 

ヴィクト ール・グラーザーのリビングでレストア中の356

妻を亡くした後、グラーザーは自宅のリビングルームにオーストラリアから持ち帰ったポルシェ 356ロードスターを押し込み、少しずつレストア作業を進めていた。

 

故郷オーストリアにポルシェのミュージアムを

 

シュミードはそのエンジンサウンドを逃すことなくシャッターを切り続ける。

 

しかし、時折、涙でピントが合わなくなってしまったという。大学の写真科で学んでいた彼は、このグラーザーのポルシェへの素晴らしき情熱を、モノクロ写真とともに卒業論文のテーマに選んだ。「With Ein Leben. Ein Mythos (A Life. A Legend:ある人生の、とある伝説)」を書き上げたシュミードは、優秀な成績で大学を卒業した。

 

グラーザーは不屈の闘志と多くの犠牲によって、生涯の夢を実現しようとしていた。彼の居住空間はたった20平方メートルほど。そこには狭いベッド、椅子、机、ラジオ、ストーブしかない。残りの空間すべてが、356スピードスターのために使われていた。

 

「私は十分に幸せだ。ほかに欲しいものなんて何もない」

 

グラーザーの夢は、故郷オーストリアにポルシェのミュージアムを開くことだった。彼はすでに最初の3台のクルマを所有している。あとはレストアを待つだけだ。数少ない貴重な右ハンドルの356スピードスターはリビングルームでレストア中、残りの2台はまだ輸送用コンテナに収められて、自宅のバックヤードに置かれたままだ。

 

356に930のパーツを装着して夢のポルシェに

 

コンテナの上の段には、機械式インジェクションポンプを備えたを2.7リッター搭載する「ポルシェ356Aクーペ」。このクルマは356スピードスターに930のパーツをつけて改造したものだ。そして、下の段には「1959年型 356Bロードスター」が収められている。

 

この1977年型930の3.0リッターターボエンジンを搭載した356Bロードスターは「356/930」と名付けられており、グラーザーの一番のお気に入りだった。延長ケーブルが巻かれた掃除機の横に置かれたソファに座り、彼はタバコをくゆらせながらいつまでも2台のポルシェを眺め続けていたという。

 

グラーザーはこの場所で、シュミードにオーストラリア時代の思い出を話してくれた。1981年、彼が最初に壊れた356Bロードスターを購入したときのこと。1986年にはオーストラリアでレストアのために「356 Register Inc」というクラブを立ち上げたこと。そしてオーストリアに帰国後も、グラーザーはクラブの友人と連絡を取り合い、手紙のやりとりを続けていたこと。

 

夢半ばで突然帰らぬ人となったグラーザー

 

2008年5月、グラーザーは突然帰らぬ人になってしまう。シュミードはグラーザーに宛てたオーストラリアからの手紙を受け取り、その返信をどうすべきか考え続けていた。当時のグラーザーの友人と出会い、彼の死と彼がオーストリアで過ごした日々の姿を伝えたかったのだ。そしてオーストラリアで彼がどのように暮らしていたのか、知りたかったのだという。

 

では、彼の356はどうなったのだろうか?

 

長い間、シュミードはグラーザーが亡くなった後、彼のスポーツカーに何が起こったのか知る術がなかった。そして2012年のある日、1本の電話が掛かってくる。その電話の主は、ラファエル・デュエス。彼こそが、グラーザーが遺した3台の356の現所有者だった。

 

グラーザーの遺産管理人は、グラーザーの3台の356をシュテファンスキルヒェンのディーラーに売却していた。そこから3台の356を購入したデュエスは、すぐにグラーザーの果たされなかった夢を知る。ロードスターの拡大されたホイールアーチ、追加されたふたつのエアインテーク、そして356には珍しく、911S を思い起こさせるフロントのリップスポイラー・・・。

 

グラーザーの夢を実現するべきか、それはデュエス次第だった。そして、デュエスは元の持ち主が意図した通りのレストアを行うことを決める。右ハンドルから左ハンドルに変更し、ボディを溶接・塗装、エンジンとトランスミッションは全て修理した。そして、最後にフロントウィンドウを縁取るクロームを美しく磨き上げたのだ。

 

356スピードスターをドライブするロール

グラーザーの夢を引き継ぎ、356Bロードスターのレストアを完成させたデュエスは、旧知の仲だったヴァルター・ロールにテストドライブを提案。クルマの完成度に触れたロールは、すぐに購入を決断した。

 

新たなオーナーは元WRCチャンピオンのヴァルター・ロール

 

2018年、デュエスは旧知の仲だったポルシェのブランドアンバサダーを務めるヴァルター・ロールに連絡。グラーザーの意思を受け継いで356Bロードスターをベースにして完成した「356/930」の試乗を依頼する。

 

「私はヒストリックカーの大ファンです。このようなクルマに乗ると、自分がまだ何かをできるはずだという気持ちになるのです」と、ロールは笑顔を見せる。

 

「ターボエンジンに換装された356Bロードスターということで、慎重にアプローチすることになりました。ドライブ前はかなり改造範囲が大きいように感じていましたが、走り始めてすぐ、完璧にバランスが取られていることに驚いたのです。フロントのリップスポイラー、そしてリヤに搭載された260psを発揮する重いエンジンが印象的でした。スムーズかつ正確に走ってくれて、とにかくドライブが楽しかったです」と、ロールは興奮を隠さずに振り返る。

 

ロールの元で与えられた新たなネーミング「356 3000 RR」

 

そして、2度のWRCチャンピオンを経験したロールは、デュエスが新たに「356 3000 RR」と命名した356/930の購入を決めた。「3000」はその排気量から、「RR」は「Rohrl Roadster」の頭文字から採られている。

 

スレートグレーのボディカラーに、鮮やかなレッドのインテリア。エンジンカバーには、モンテカルロ・ラリーで4勝を記録したヴァルター・ロールの特製バッジが装着された。356用ホイールに、911用のステアリングホイールが取り付けられている。356でありながら、どこか911を思わせるその姿こそ、ヴィクトール・グラーザーが生涯をかけて追い続けた夢そのものである。