フォード艦隊のル・マン来襲【フォード GT40はいかにして神話になったのか。Vol.4】

公開日 : 2020/03/19 11:55 最終更新日 : 2020/03/19 11:55


1966年ル・マンのスタートイメージ

48時間分の耐久性を確保するという使命

 

セブリングにおけるダン・ガーニーの事件はたしかに災いであったが、転じて福を成すことに繋がった。フォードのエンジン開発部門と製造部門はマシンから降ろしたエンジンをバラバラにしてすべてのパーツを再検証。改善点を突き止めた。

 

マイルズのサポートによりル・マンのコンディションを再現したダイナモメーターを開発し、レースにおける過酷な条件下でテストを行うことができた。ちなみにこのダイナモメーターが設置されたテストルーム「17D」は、「ル・マン用の屋内ラボラトリー」と呼ばれたという。スタッフが目指したのは、レース時間の2倍に及ぶ最大48時間分の耐久性を確保することだった。

 

フォードのエンジニア、ガス・ガッセルはダイナモメーターによる台上試験の様子をこう表現している。「まるでコントロールルームでケン・マイルズがクルマを走らせているようでしたよ」

 

最終的に485hp/6400rpmの性能を48時間ずっとキープできる性能を実現できたのは、5月も終わろうとしている頃だった。

 

テストエンジンのスペックに基づき12基のユニットが作られ、シェルビー・アメリカン、ホルマン・ムーディー、アラン・マン・レーシングのもとへ送り込まれた。

 

フォード GT40のエンジン台上試験イメージ

427ユニットは台上試験を通じて徹底的に耐久性を追求。48時間のレースにも耐えられる信頼性を確保した。

 

「走る」は解決。もうひとつの難問は「止まる」

 

もうひとつの課題はブレーキである。マーク2で増した重量とスピードに十分耐えきらねばならない。たとえばヘアピン手前で200mph(約322km/h)超のスピードを一気に減速したとしよう。ブレーキフルードは瞬く間に沸点に達するだろうし、ローターが曲がりディスクにクラックが入る可能性も十分にある。

 

フォードとケルシー・ヘイズは、パッドとローターの素材として何が適当なのか、じっくりと実験を重ねていった。チームの間でまことしやかに語られた話として、こんな噂もある。パッドに使う素材をいち製造部門では十分に生産できなかったため、フォード モーター カンパニーは確実な資材確保のために会社ごと買い取った、というが誠か否か。

 

シェルビー・アメリカンのフィル・レミントンはキャリパーを速やかに付け替えることのできるシステムを考案し、ジョン・ホルマンはローターのスムーズな交換を可能にする機構を作り上げた。もしもブレーキに不具合が生じたとしてもほんの数分あれば修理ができるよう、万全の準備が整えられたのである。

 

1966年ル・マンのフォードのピットイメージ

1966年ル・マンのフォード陣営ピット。ゼッケンナンバー1がケン・マイルズ/デニー・ハルム組、2がブルース・マクラーレン/クリス・エイモン組。

 

総勢8台を引き連れたフォードの大艦隊

 

1966年6月、フォード モーター カンパニー艦隊がエンジニアの隊列を率いてル・マンへついにやってきた。そのうちのひとり、モーズ・ノーランドはこう語っている。「ただひたすら興奮した空気に包まれていました。なにしろ我々の任務はMr.フォードにとって非常に重要であるということを全員が知っていましたから。その全権が委ねられていたのです。何時間働くか、どのような物資が必要か、どのような場所であるべきか。最初の瞬間から、とても重要なミッションであると分かっていました」

 

ファクトリーとしてエントリーしたGT40は総勢8台。シェルビーとホルマン・ムーディーに各3台、そしてイングランドのアラン・マン・レーシングに2台が委ねられた。最大の敵フェラーリは、3台の330 P3と4台の365 P2を含む11台を送り込んでいる。

 

本番近くになるとチームをサポートするためにル・マン委員会の面々も集まってきた。このレースの名誉会長に指名されていたヘンリー・フォード2世も彼の妻とともにスターターを務めるべく列席。子息エドセルも帯同していた。

 

1966年ル・マンのスタートイメージ

1966年6月18日。午後4時にスタートしたル・マン24時間レース。クオリファイではダン・ガーニーが1位、ケン・マイルズが2位につけた。

 

宿敵フェラーリとのシーソーゲーム

 

6月18日、午後16時きっかりにヘンリー・フォード2世がスターターフラッグを翻すと、ドライバーは一斉にマシン目がけてコース上を駆けだしていった。クオリファイの結果はダン・ガーニーがトップ。それに次ぐ結果を残していたケン・マイルズはいきなりヘルメットでドアを打ちつけるアクシデントに見舞われてしまい、すぐにピットインすることになった。

 

レースの序盤は、フォードとフェラーリのマシンが盛大な雄叫びをあげながらつばぜり合いを繰り広げた。フォードの速さは観客の誰もが認めるところであった。しかし、一度たりともル・マンを制したことがないことも知っていたのだ。

 

夜が明け、レースが動いた。メカの不具合を原因にフェラーリ勢が続々と脱落し始めたのである。フォードも数台はリタイアに追い込まれたものの大半は順調に周回を続けており、1位、2位、3位、5位、8位を占めていた。

 

そして午前4時、最後のフェラーリがリタイア。フォードのドライバー全員に、スローダウンの命が下った。マシンを無事にフィニッシュラインまで運ぶための施策である。これまで3分30秒ほどだったラップタイムは、3分50秒まで落とされた。

 

1966年のル・マン。ダンロップ下イメージ

夜明けとともに続々とライバル勢が脱落していくなか、GT40は淡々と周回を重ね続けた。

 

首脳陣を悩ませたレースの幕引き

 

夜っぴいてレースをリードしていたのはダン・ガーニーであり、ケン・マイルズとブルース・マクラーレンはピットインのタイミングにより2位と3位を交代しながらその後を走っていた。

 

しかし、ゴールまで約6時間というタイミングでダン・ガーニーのマシンがエンジントラブルで退却。勝利への望みはシェルビー・アメリカンとホルマン・ムーディーが走らせる残りの3台に駆けられた。先頭集団を構成する3台は順調に進んでいく。

 

残り2時間を切ろうとする頃、レオ・ビーブとキャロル・シェルビーは「レースの終わり方」について議論を交わした。1-2-3でフィニッシュラインを越えることにはなんの疑問もなかった。しかし、その順番が問題だった。もしもマイルズとマクラーレンがつば競り合いを続けたら、セブリングでのダン・ガーニーのようなメカトラブルが起こりかねない。

 

そして浮上したのが「3台同時ゴール」というアイデアだった。

 

(つづく)

 

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