1966年、歴史にいまも輝く栄光のル・マン【フォード GT40はいかにして神話になったのか。最終章】

公開日 : 2020/03/20 11:55 最終更新日 : 2020/03/20 11:55


1966年のル・マンの1-2-3フィニッシュイメージ。

二転三転したACOからの回答

 

フォード GT40による「3台同時ゴール」のアイデアについては、オーガナイザーのACO(Automobile Club de l’Ouest=フランス西部自動車クラブ)にも問題の有無について尋ねたうえで、一度は合意を得られている。

 

その時コース上を走っていたケン・マイルズとブルース・マクラーレンは、ピットインの際に決定事項を伝えられた。両者がそれを聞いて躍り上がるはずもなかったが、しかし反対もしなかった。ケン・マイルズの言葉が残っている。

 

「僕はフォードのために働いている・・・だから彼らが僕にレースで勝って欲しいと望むならそうするし、もしも湖に飛び込めと言ったら、やっぱりそうするしかないかもしれないね」

 

1966年ル・マンのフォードピットイメージ

ピットインするゼッケンナンバー2(ブルース・マクラーレン/クリス・エイモン組)のマシン。

 

マクラーレンのピットストップ以降、先頭を走っていたマイルズがスピードを落とす。マクラーレンもスローダウンしてホルマン・ムーディのドライバー、ディック・ハッチャーソンが追いついてくるのを待った。

 

しかし、実はこの時点までにACOからフォード陣営へ通達が届いていた。「“タイ”でのゴールは、実際には認められない」。つまり、同時ゴールの場合“より長い距離を走った方”が勝者になるというのだ。ケン・マイルズはグリッド2番手、4番手だったブルース・マクラーレンのチームはスタートラインから8メートル後方から発進していた。

 

このACOによる規定はいくつかの議論を呼んだ。なにしろ同時ゴールについての記述は同年のレギュレーションに一行も登場しないのだから。

 

1966年ル・マンのミュルザンヌコーナーイメージ

1966年ル・マンでブルース・マクラーレンチームのマシンがヘアピンカーブのミュルザンヌコーナーを行く。

 

レオ・ビーブが下した苦い決断

 

ACOによる方針転換をいかにしてドライバーへ伝えるか。レオ・ビーブとキャロル・シェルビーは膝をつきあわせて相談しあった。考慮すべき点はいくつもある。ケン・マイルズがマーク2の開発で果たした役割は大きい。1965年の2月から多くの時間を準備につぎ込んできた。かたやブルース・マクラーレンはプログラムが発足した1963年以来のメンバーであり、常に指示されたスピードを守りながら走る真のチームプレーヤーであった。両者はいずれも勝つことができる自覚があったし、レース後半は1ラップ以上の差が開くこともなくふたりがレースをリードしてきた。

 

ビーブが下した結論は、ドライバーには通知せずにデッドヒートをさせておくというものだった。それはマクラーレンのチームを勝者に据えることであった。ビーブは後にこう語っている。

 

「ケンを勝たせるほうが時期的にも人気の面でも良かったでしょう。しかしマクラーレンとクリス・エイモンのほうが我々のルールに正確に従った。結果は私にさえ必ずしも好ましいものだったわけではありません」

 

1966年のル・マンの1-2-3フィニッシュイメージ

1966年のル・マンの1-2-3フィニッシュ。ゼッケンナンバーの1と2が接戦状態、3がその後に続いた。

 

ケン・マイルズが被るはずだった幻のトリプルクラウン

 

ファイナルラップ。3台のGT40は歩調を合わせるようにコース上を疾走した。最後はデッドヒート状態のマイルズとマクラーレンに、ハッチャーソンが続く形でフィニッシュラインを越えた。その瞬間の写真には、マクラーレンが前に押し寄せている様子が収められている。チェッカードフラッグはフィニッシュラインの手前で振られていたが、IBM製の電子機器によるタイム記録装置も新たに導入されており、写真判定も影響を受けなかった。

 

ケン・マイルズ、そして助手席に箱乗りになって身を乗り出したパートナーのデニー・ハルムはビクトリーレーンに向かった。しかしそこで彼らが見たのは、マクラーレンとエイモンがポディウム最上段へ招かれる姿だった。

 

ACOのルール解釈を報されたふたりは驚き、意気消沈した。マイルズの落胆はいかばかりだったろう。彼はデイトナ、セブリング、そしてル・マンを同じ年に制したトリプルクラウンに輝くはずだったのだから。ル・マンから数ヵ月後のインタビューで、しかしマイルズは冷静だった。今一度、自分はフォードのために働いていたということ、いかなる結果であれ受け入れるであろうことを吐露している。

 

1966年ル・マン勝利を伝えるプレスリリース

フォードチームの1-2-3フィニッシュを伝えるプレスリリース。「起伏の続くフランスの田園地方に小雨が降り灰色の雲が低く垂れ込める中、黄昏時を染める3台の流麗なプロトタイプがフィニッシュラインを越えていった」という叙情的な書き出しが実に印象的。

 

オーケストラが完璧に演奏した交響曲

 

フェラーリの拒絶から3年。フォードは世界最高の耐久マシンを作り上げ、勝負を制した。

 

ル・マンでの勝利は3年間にわたるエンジニアリングと設計、研究の到達点だった。レースに勝つためのクルマとチームを作り上げることに彼らは文字通り心血を注いだのだ。モータースポーツはエンジニアリングだけでは成立しない。そこにドライバーの芸術的手腕と直感力が加わってはじめて成り立つものだ。GT40 マーク2にはそのすべてが備わり、そしてスタッフの全員が自らの役割を十全に演じきった。オーケストラの完璧な演奏のように。ル・マンの優勝は交響曲の完成だった。

 

フォード モーター カンパニーが重ねた相当数の研究の成果は自動車技術協会による冊子でもいくつも取り上げられた。シェルビー・アメリカンやホルマン・ムーディーは「負けないマシン」に鍛え上げるための技巧を提供した。ドライバーのひとりひとりは、難しいコースを攻略するビジョンと勇気をもたらした。

 

1966年ル・マンの表彰台イメージ

1966年のル・マンを制し、ポディウム上で勝利を祝す。左からブルース・マクラーレン、ヘンリー・フォード2世、クリス・エイモン。

 

フォードのエンジニア、モーズ・ノーランドはル・マンを制した瞬間のピットエリアの光景をこう描写している。

 

「たくさんの涙とたくさんの歓びで溢れていました。何が一番価値があったかって、それはMr.フォードの笑顔でしょう。彼は心底そのレースに勝ちたがっていました。ひとりの紳士がそこにいて、彼がとても満足そうにしている。それを見たら誰でもとても良い貢献をしたのだと感じますよ。この勝利のために働いた我々にとって、その輝きは何週だって何年だって消えることがないんです」

 

Mr.フォード。彼こそがこの交響曲の指揮者だったのかもしれない。

 

 

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