アルファロメオ物語【第1話】24HPから始まるミラノのスポーツカーメーカーの歴史

公開日 : 2020/04/30 11:55 最終更新日 : 2020/04/30 11:55


アルファ・ロメオ物語のイメージ

フランスの自転車工房からイタリアの自動車工場へ

 

1910年6月24日、ロンバルダ自動車製造株式会社(Anonima Lombarda Fabbrica Automobili)が誕生した。公式的にはこの日がアルファロメオの創立記念日とされている。しかしそれより数年も前、すでにその歴史は芽生えていた。カイゼル髭をたくわえた才能溢れるビジネス人、ピエール・アレクサンドル・ダラックによって。

 

ダラックの波乱に富んだキャリアの出発点は、ボルドーで営んでいた自転車工場である。のちに自動車と恋に落ち、フランスでの車両生産をスタートした。船出は上々で、輸出にも着手。まずはロンドンに支店を開き、1906年4月にはイタリア・ナポリにも進出していった。しかしフランスからナポリは遠く、道のりが複雑でコストも嵩む。そこでその年の12月までに、ダラックは生産拠点をミラノのポルテッロ地区95番地へと移転した。

 

ダラックの1908年製8/10HPイメージ

ダラックの1908年製8/10HP。安く軽量で幾分パワー不足だったダラックのモデルはイタリア人の好みにいささかそぐわなかった。

 

難局に陥ったダラックの転換点

 

物流上の問題だけでなく、マーケット面でも難題に直面した。イタリアの自動車販売は数千台規模であり、全体的に購買力が低かった。加えて、ダラックのクルマは軽量かつ安価ではあるもののパワー不足であり、イタリア人の好みと性質を異にしていた。結局、ダラックの会社は1909年に倒産することになる。

 

しかし、ポルテッロの工房の可能性に目をつけていた者がいた。ダラックのもとでマネージングディレクターを務めていたカヴァリエ・ユーゴ・ステッラは速やかに動いた。地元の資金提供者を訪ねるとともに、保証を取り付けるべくミラノの農業銀行の門戸を叩いたのである。彼は工場を引き継ぎ、そこで働いていた200名超を再雇用した。

 

非常に野心的かつ明らかにリスキーな動きではあった。しかしカヴァリエは仕事のこともリスクのことも正しく理解し、さらに顧客の望むクルマをきちんと知っていた。しかも、トランプのエースを袖の中に隠しもっていた。すなわち、そのクルマを設計できるとっておきの人物がいたのである。

 

アルファのミラノ・ポルテッロ工場。1910年。

1910年のミラノ・ポルテッロ工場。会社は経営不振だったが、工場内で生みだされるプロダクトには大いなる可能性が見いだされていた。

 

自動車に情熱を注いだ青年、メロージの登用

 

ジュゼッペ・メロージは元々ピアチェンツァの建築積算士だった。だが当時の多くの青年たちの例に漏れず自動車に強い情熱を抱いていた彼は、その世界でいくつかの仕事をするようになっていた。1909年秋、カヴァリエはメロージにまったくの新しいクルマを2台作ってみないかと声をかけた。定評を得ていたボディワークとフレームをもとに、ダラックよりもパワフルなエンジンを積んだイタリア人好みのクルマを。

 

ミラノのカプッチョ通り17番地にある下宿で、若きエンジニアは夜も昼も働き続けた。そして1910年1月1日、彼は最初の一台の計画書を会社へ提出したのである。

 

1906年に撮影されたジュゼッペ・メロージのイメージ。

1906年に撮影されたジュゼッペ・メロージの写真。のちにアルファロメオの最初のクルマ、24HPを計画する。

 

賃金2年分でも「売れた」24HP

 

ブランドができあがる前にひとつの市販用モデルが作られたのは、もしかしたら自動車の歴史上で唯一の例かもしれない。「24HP」は当時としては珍しいモノブロックエンジンを搭載していた。4.0リッターの4気筒エンジンは最高出力42hpを発し、シングルスピード・トランスミッションで後輪を駆動。

 

頑強なフレームにC型鋼のクロスメンバーを配置し、カスターニャやスキエパッティ、サラ、ボラーニなどのコーチビルダーによりトーピード(魚雷型。ボンネットからリヤまで一直線になったベルトラインを持ち、フォールディングもしくは着脱式のソフトトップを備えたボディスタイル)やリムジンなど顧客の細かな注文に応じて架装された。

 

最高時速は62mph(約100km/h)に達し、組み立て精度も高く優れたロードパフォーマンスを実現した24HPが人気を獲得したのは当然だったろう。価格は同社の従業員の賃金2年分に相当したが、それでも出だしから売れ行きは好調だった。

 

エレガントでスポーティ、かつ技術的にも先を行き、まごうことなきカリスマ性を匂わせる。つまり“A.L.F.A.”の第一号車は、まさしく真のアルファロメオだったのである。

 

アルファロメオの最初の自動車、1910年の24HPイメージ

A.L.F.A.の最初の自動車、1910年の24HP。同社従業員の賃金2年分に相当する価格ながら、順調な売れ行きを示した。

 

レースで活躍するという最高の宣伝手法

 

自信と確信を得たメロージは1911年までに24HPの“コルサ”を開発。より軽量でパワフルな高性能モデルは、今日でいうところのGTAのような存在だった。このハイパフォーマンス仕様を戴き、A.L.F.A.は創業1年目にしてレースの世界へと足を踏み入れたのである。

 

1913年のパルマ-ポッジョ・ディ・ベルチェートを走るニーノ・フランキーニイメージ

1913年のパルマ-ポッジョ・ディ・ベルチェートを走るニーノ・フランキーニ。

 

最初の勝利は1913年。ニーノ・フランキーニが運転する24HPがパルマ-ポッジョ・ディ・ベルチェートで総合2位、初のクラス優勝を果たしている。

 

新興ブランドにとって、レースでの活躍は最高のPR方法であった。そのことをよく知っていたメロージは、思い切って新しいコンセプトのエンジンを搭載したレーシングカーを作ることを決意。1913年までに、40/60HPを準備した。

 

マリオ・リコッティ伯爵の40/60HPプロトタイプイメージ

40/60HPをベースにリコッティ伯爵がカスターニャに依頼したボディを架装した空力実験プロトタイプ。SF小説から抜け出してきたような宇宙船的フォルムがハンドビルドで叩き出されている。

 

リコッティ伯爵の野心的なプロトタイプ

 

マリオ・リコッティ伯爵はこのA.L.F.A.製シャシーをベースに、コーチビルダーのカスターニャに一台の実験的な車両を製作するようオーダーしている。その依頼とは、当時の新しい科学であった空力に着眼したボディを作ることであった。

 

そうして生まれたのが40/60HP エアロディナミカ リコッティ トーピード。SF小説の開祖として知られるジュール・ヴェルヌの作品からそのまま飛び出してきたかのようなクルマは、最高速度86mph(約138km/h)を実現したという。むろんプロトタイプとして1台だけが製作された。

 

1927年のミッレミリアにて。ニコラ・ロメオイメージ。

1927年のミッレミリアのスタート地点。一番右がニコラ・ロメオ。RLに乗っているのはガストン・ブリリ・ペリとブルーノ・プレセンティ。

 

ビジネスセンスに長けたニコラ・ロメオの着眼点

 

しかし第一次世界大戦の勃発はあらゆる人々の生活を変えた。A.L.F.A.も当然軍用品の製造を求められた。しかし変化が新たな機会をもたらす。1915年12月2日、ニコラ・ロメオ技師有限会社がA.L.F.A.の経営権を取得。ポルテッロの工房を受け継ぎ、軍用品と航空エンジン生産へと舵を切った。元々あった製造部門の横に新しく精錬所とアメリカから輸入した工作機械や設備を配した鋳造ラインを設置。数百だった従業員数はまもなく1200名を超えた。

 

のちにイタリア上院議員も務めることになるニコラ・ロメオは、大戦中に「コストゥルツィオーニ・メカニケ・ディ・サロンノ」やローマの「オフィチーネ・メカニケ・タバネッリ」、ナポリの「オフィチーネ・フェッロヴィアーリエ・メリディオナリ」といった主要な機械製造会社を買収した。

 

ニコラは自社名を「ニコラ・ロメオ技師株式会社」へと変更、イタリア割引銀行がA.L.F.A.に清算を持ちかけたときには買収の準備を整えていた。

 

ジュゼッペ・カンパリ、アントニオ・アスカリ、ウーゴ・シヴォッチ、エンツォ・フェラーリイメージ

戦後、ヨーロッパのレース界で活躍した才能あふれるドライバーたち。ジュゼッペ・カンパリ、アントニオ・アスカリ、ウーゴ・シヴォッチ、エンツォ・フェラーリ。

 

エンツォ・フェラーリら有能ドライバーが望んだ栄冠

 

名称を巡って元オーナーとの係争が生じたため、ロメオは「アルファ」に自身の姓である「ロメオ」を組み合わせて車両を売り出すことにした。“アルファロメオ”という新たなブランド名を冠した最初のモデルは20-30HPとその派生車である20-30 ES Sportだった。

 

戦後は有能なドライバーがヨーロッパのレース界の表舞台へと躍り出ていった。ジュゼッペ・カンパリ、アントニオ・アスカリ、ウーゴ・シヴォッチ、そして若きエンツォ・フェラーリ。ムジェッロをはじめ、パルマ-ポッジョ・ディ・ベルチェート、タルガ・フローリオ、アオスタ-グラン・サン・ベルナール、コッパ・デッレ・アルピなどで、アルファロメオは常勝。唯一手にできていなかったのが、国際レースでの栄冠であった。

 

1923年のタルガ・フローリオ。マシンを駆るウーゴ・シヴォッチのイメージ

1923年のタルガ・フローリオ。ウーゴ・シヴォッチの駆るマシンのボディ側面には幸運を呼ぶモチーフ「四つ葉のクローバー」が描かれている。

 

四つ葉のクローバーが歴史に刻まれた瞬間

 

その目標を達するべく送り出されたのがRLである。1921年11月に開催されたロンドン・モーターショーに出展された新型車は、英国プレスによって「世界で最もエレガントなクルマに対するイタリア的回答」と描写された。

 

RLはメロージの傑作だっただろう。56hpの3.0リッター直列6気筒モノブロックエンジンはヘッドを脱着することができ、プッシュロッドとロッカーアームを採用していた。最高速度は68mph(約109km/h)を実現していたようだ。

 

1923年には、メロージは2台の特別なレーシングモデル“コルサ”を開発。車両重量は980kgまで削られていた。タルガ・フローリオに照準を定めて設計されたマシンは、確かにその任務を果たしてみせた。

 

1923年4月、タルガ・フローリオのスタートラインに並んだウーゴ・シヴォッチのマシンの車体側面には、白地に緑で四つ葉のクローバーが描かれていた。幸運のお守りの効能もあらたかに、シヴォッチはタルガ・フローリオで優勝。クアドリフォリオ(Quadrifoglio=四つ葉のクローバー)がアルファロメオの歴史に加わった瞬間であった。

 

ヴィットリオ・ヤーノと、彼が生んだGPカー「P2」イメージ

ヴィットリオ・ヤーノと、彼が生んだGPカー「P2」。1925年のグランプリ優勝を祝し、アルファロメオのロゴは月桂樹で囲まれた。

 

稀代の設計者、ヴィットリオ・ヤーノの参画

 

量産車両とグランプリマシンの製造を分けるべき時がやってきた。相応しい人物がいた。後に歴史的名マシンを数々手掛けた稀代の設計者、ヴィットリオ・ヤーノだ。招聘を提案したのは当時同社のドライバーだったエンツォ・フェラーリである。ピエモンテ州出身の若き設計者は当時フィアットで働いており、エンジンとフレーム構造のスペシャリストであった。

 

スーパーチャージャーを装備した小排気量エンジンなど、ヤーノは革命的なアイデアをアルファロメオにもたらした。最初に彼が設計したモノポスト(シングルシーター)のGPマシンはデビュー戦のクレモナ・サーキットでライバルを圧倒。98mph(約158km/h)の最高速度叩き出した。

 

1925年のグランプリ シーズンはAIACR(国際自動車公認クラブ協会、現FIA)による最初の世界マニュファクチュアラーズ選手権として開催された。そしてアルファロメオは、ついにP2“Gran Prix”にて、初めてコンストラクターズ チャンピオンシップを獲得するのである。この勝利を祝し、アルファロメオのロゴは月桂樹で縁取られるようになった。

 

 

(つづく)