歴史から紐解くブランドの本質【ベントレー編】

ラグジュアリーではなく高級高性能こそベントレーの根幹【歴史に見るブランドの本質 Vol.30】

1921年に登場した「ベントレー・3リッター」。ベントレー初のグランドツアラーの性能と耐久性は当初から評判となった。
1921年に登場した「ベントレー・3リッター」。ベントレー初のグランドツアラーの性能と耐久性は当初から評判となった。
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

アルミピストンを戦闘機に

ウォルター・オーウェン・ベントレーは鉄道会社の見習いエンジニアとしてそのキャリアをスタートし、そこで様々な技術の基礎を学んだ。

1912年、兄のホレス・ミルナー・ベントレーと共にフランスのDFPという自動車の販売を行う会社「ベントレー・アンド・ベントレー」を設立する。しかしDFP車の性能に不満を持ったウォルターは、高性能化のためにピストンをアルミで作ることを思いつく。アルミピストンを用いた改良エンジンでブルックランズのレースに参戦するも、時代は第一次世界大戦に突入してしまう。

ウォルターはイギリスの戦闘機の性能を上げるべくアルミピストンのノウハウを航空機エンジンメーカーに提供した。エンジニアとして評価の高まったウォルターに、イギリス海軍は全く新しいエンジンの開発を委ねた。そうして作られた「ベントレーBR1」エンジンは、イギリスの戦闘機に搭載され活躍する。

ベントレー・ボーイズ

戦後の1919年、ウォルターは自らの車を作るべく、ベントレー・モータースを設立した。最初に開発した3リッターエンジンは4気筒OHC、4バルブという当時としては非常に進んだ設計だった。このエンジンを搭載した「ベントレー・3リッター」は1921年に発売となり、その性能と耐久性は当初から評判となった。

1922年にはインディアナポリス500マイルレースに出場、完走を果たす。1923年にはル・マン24時間レースに参戦し、4位に入賞。翌1924年には優勝を成し遂げる。ベントレーの名声は一気に高まり、多くの富裕なイギリス人モータリストがベントレーを購入した。このモータリスト達は「ベントレー・ボーイズ」と呼ばれるようになる。イギリス留学中だった白洲次郎は、1924年にル・マンで優勝したベントレー・ボーイズのひとり、ジョン・ダフからベントレー・3リッターを購入したといわれている(この白洲の車は埼玉県にあるワクイミュージアムに現存する)。

なおベントレー・ボーイズのベントレーは、1927年から1930年まで4年連続ル・マン優勝を果たす。優勝モデルは1927年が3リッター、1928年が4½リッター、1929年と1930年は6½リッター6気筒の「スピード・シックス」である。

ロールス・ロイスによる買収

ロールス・ロイス傘下で初のオリジナルボディとなったコンチネンタルR。

ここまではベントレー栄光の歴史であり、ベントレーのブランドイメージの礎もここにある。しかしながら1929年に世界恐慌が発生。高級高性能車しかラインナップしていなかったベントレーはたちまち窮地に追い込まれ、1931年にロールス・ロイスに買収される。その後のベントレーは、ロールス・ロイスをベースとしつつホイールベースを短縮して、エンジン性能を上げたオーナードライバー向け車種で構成するブランドとなっていった。価格もベントレーの方が若干安かったため、当初はロールス・ロイスよりベントレーの販売台数の方が多かった。

しかし1955年のSタイプ以降はロールス・ロイスと仕様差はなくなり、1965年のTシリーズからは完全にグリルとバッジの違いだけとなった。このためベントレーの存在意義が希薄となり、生産台数はごく限られたものになっていった。ベントレー独自のモデルの復活は1991年のコンチネンタルRまで待たねばならなかった。

1962年に発表され、今でも最高のスポーツカーの1台として初期のロータスを代表するエラン。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…